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一部の人からラジオくんと呼ばれています。

ローカル放送局にできること

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閉局、というのは放送局にとってなんとさみしい言葉なんだろう。

これまで女川さいがいFMに関わられたみなさん、本当にお疲れさまでした。

 

女川さいがいFMは、その名の通り「臨時災害放送局」だ。

臨時災害放送局 - Wikipedia

大規模な地震などの災害時に、自治体が免許人となって簡易な手続きで放送を開始できる。コミュニティ放送を含む通常の放送局の免許は自治体には交付されない(そのため

自治体主導で作られる場合でも免許人となるためのNPOや3セク法人などが作られる例が多い)ので、災害時に限った特例的な制度と言える。

免許期間は「被災者の生活が落ち着くまでの間」とされている。

 

私見だが災害時にローカル放送局が力を発揮するのは、災害直後のフェーズと、その後に分けられる。

災害直後に関しては、取材力も乏しいローカル放送局では被害の詳細な全容などを伝えるのはなかなか難しい。いっぽう情報が錯綜しがちなフェーズであるので、「とりあえずあらゆる情報をローカル放送局に集める」という方法を持って、リアルタイムに近い情報発信を行うことができる。

これはうちを含む多くのコミュニティ放送局も経験しているところだろう。

もうひとつ、その後のフェーズについて。

東日本大震災のような未曽有の大災害の後、どのようにコミュニティを再生するか、というのは非常に難しい問題だ。

ラジオのような電波メディアはローカルであればあるほど人の存在が身近に感じられる。その点において、女川さいがいFMのような放送局が果たした役割は大変大きなものであっただろうと思う。

制度的には、通常のコミュニティ放送局に移行することは当然検討されただろう。

だが実際には、臨時災害放送局として立ち上がった放送局がコミュニティ放送局に移行するというのはなかなかにハードルが高い。

臨時災害放送局は災害時の特例であるため、簡易な手続きで開設できる反面、災害が落ち着いたと判断されるときにはその役割を終えることが想定されている。記事を読む限りは、このあたり管轄する総務省側も制度の範囲内でめいっぱい柔軟な対応をとられたようだ。

 

いっぽう通常のコミュニティ放送局は、制度的には常設の地上基幹放送局である。無線技術者の管理や放送事故の防止対策など、様々な義務が課せられる。公共の電波を常時使用するわけだからある意味仕方ないのだが、このような基幹局としての体制を維持することにかかる事務コストは馬鹿にならない。

維持するためにはそれなりの収入も必要である。

女川さいがいFMをはじめとする臨時災害放送局が、コミュニティに移行せず閉局することを選ばれたのはこのようなことが理由なのかどうかまでは定かでない。

ただコミュニティ放送局を運営する側からすると、少なからずこのような事情はハードルになっただろうと思うしもうすこし制度側に柔軟さがあって良いような気がしてならない。

再生し始めたコミュニティが、より確かなものになっていくフェーズはこれからなのだ。

 

うちの局でも、芸能人など有名な方が出演されることは稀にあるが、ほとんどの出演者は地域に暮らす普通の方々。ゲストであり、リスナーであり、スポンサーでもあったりする。そのような距離感が、コミュニティの力なのだ。

ラジオに自分が、あるいは身内が出演した、ということをこれほど喜んでくださるのか、と思わせられるような光景に我々は日々直面している。

電波に乗る、ということには力があるのだ。

 

電波が公共財であるというのは、わかる。

 

だが、放送事故が起こらないような体制を常時構築し、無線技術者の管理を受け、免許更新手続きをはじめとした様々な手続きもこなし、番組を作り審議会もやってスポンサーへ営業し自ら稼ぐ。そのようなビジネスモデルを構築するのはおいそれと出来ることではない。

鹿児島県では2016年3月現在、うちを含め12のコミュニティ放送局が存在している。開局予定のものも含め、まだまだ増える傾向にありそうだ。

 

基幹放送局であるというのは、コミュニティ放送に対し国がそれだけ力のあるものとして捉えていることの表れでもあるのかもしれない。しかしその制度そのものがコミュニティ放送局の開設や維持におけるハードルになっている点は否定できない。

コミュニティの段階も、規模もさまざま。女川さいがいFMのような象徴的な事例を機に、コミュニティのかたち、まちの形に合わせたさまざまな放送局が柔軟に存在しうる制度になってほしいと願うばかりだ。

 

コミュニティ放送局は災害時のためのものでしょ?とよく聞かれる。

もちろん災害時には、重要な役割を果たすのだということはこの業界の人は全員知っているしそれなりの覚悟もしている。しかし本当は、そんな出番が来ないことがコミュニティにとって最も幸せなことなのだ。他愛もない話や音楽が流れている日常が。

 

その意味において、女川で最後にサザンオールスターズの「TSUNAMI」が流れたことは喜ばしいことだと思う。

遠く離れたまちから、我々は我々のコミュニティの在り方を考え続けたい。