uwagakilog

一部の人からラジオくんと呼ばれています。

コミュニティ放送局を作るということ。

別にブログを書いてたりもしたんですが、Facebookとか使うようになってあんま書いてなかったのと、いまやってる仕事のログはどこか別のところにまとめときたいなーと思っていたのでここを使うことにしました。

 

いま、コミュニティ放送局の開局事業を進めてるところで、開局予定日まで今日時点であと31日。予定日って書いてますけど既にそこに合わせてもろもろ発注してるので、多少なにかあっても土下座する用意はできてますが開局日がズレると土下座しまくって額が擦り切れて後頭部だけになっても済まなそうな気がするんで開局します。するんです。頑張れ俺。

 

で、このブログですが、コミュニティ放送局の代表としてのオフィシャルなものではないと前もって書いときます。そうはいっても一定の責任はついてまわるわけですが、個人としての目線で、自分の地元の片田舎に放送局を作る過程っていうのを記録しておくことはなんか意味あるんじゃないかなーと思ってます。誰かの役に立つとかそういうのはわかんないですけど、少なくとも自分の記録としては残しときたいぐらいのプライベートなものです。

 

突然ですけど、多くの(県庁所在地でない)地方都市は「メディア過疎地」なんじゃないかと思うわけです。少なくとも僕の地元はそうで、東京の情報は入ってきます。県庁所在地の情報も。じゃあ県内2番めだか3番めだかの規模のまちで地元情報となるとどうか、っていうと、あるようでないんですよ。もちろん地元テレビ・ラジオとか新聞とかにはある程度出ます。けどやっぱ割合的に少ない。これは構造的にしょうがないんです。それより小さいメディアっていうと、こんどは回覧板とかになる。

 

インターネットはどうかっていうと、まず鹿児島県は普及率が下から数えたほうが早い。「ネットにある地元の情報」ってのは、(言い方として好きではないですけど)情報に強い人達が発信したものが多いです。

 

埋もれている情報っていうのはどんな規模のコミュニティでもあると思いますが、きめ細かさが違うんです。ほんとは素晴らしく多様性を持っているのに、それを可視化できる環境がない。そういう意味で、「不足しているサイズのメディア」があるんです。

 

いまやろうとしてるコミュニティ放送局の運営母体は、3セクまちづくり会社なんですが「まちづくり」っていう言葉の定義は非常に難しいですね。

 

何年か関わってみて感じたのは、やっぱ「まち」も生き物だなーっていうこと。

生きてる以上、これで完成、とかがない。

 

僕はよくいろんなところで、「分人」っていう話を引用します。

平野啓一郎氏の小説「ドーン」とか新書「私とは何か」に登場する考え方です。

 

詳細は本を読んで欲しいんですが、一人の「個人」であっても父親として、経営者として、旅人として、iPhoneユーザーとして、などなどそれぞれの場面や気分で異なる顔を使い分けているはずで、それらは個人よりももっと細かく分割されて独立した存在としての「分人」と捉えたらどうか、というもの。

 

 分人は他の分人との相互作用で生まれたり消えたりします。

生まれたり消えたりすると、自分の中の分人の構成が変わります。

まちの構造も、これに似てるような気がするんですね。

 

まちという生き物を構成する個人、企業、コミュニティ。それらの中にもまた「分人」が居て、というようなフラクタル

 

まちという主体は、構成員の組み合わせによって変化するし、まちが変化することで構成員も変化する。互いに他を構成しあっているような関係(=再帰性)がある存在だと思います。

 

まちづくり、というとき、それは自分自身を、あるいはそのなかの分人を定義する行為でもある、といってもいいかもしれません。

 

そういう「まち」をとらえてまちづくり、というとき、ひとつの方向性を示してそこに収斂させてゆく、という方法論では無いアプローチがよいのではないか、と思ったというのが、コミュニティ放送局の話につながります。

 まちも、コミュニティも、(あるいは、個人も)生き物である以上、成長もすれば退化もし、寿命を迎えるときも来ます。

 

細胞が盛んに新陳代謝を起こして入れ替わってゆくように、まちが生きている状態を保つためには、相互作用が健全でなければならないのではないか。

 

こっちですよ、と引っ張ってゆくアプローチではなく、「まちのなかの相互作用」を可視化してゆくことで、健全な新陳代謝ができるようになるのではないか。

コミュニティ放送というメディアを通じて実現したいことは、そういうまちづくりです。県域メディアや全国メディアでは大き過ぎる、インターネットは部分的で早すぎる。そこで機能できるのがコミュニティ放送だと思っています。

 

ラジオ、といってしまえば大正時代からあるとても古いメディアですが、手法としては極めてFacebook的な、ソーシャル・キャピタルに基づくコミュニケーションを志向しています。

 

正直、Facebook普及率がこのまちで50%を超えたら、コミュニティ放送はもう必要ないのかもしれません。ですが、そこまで待てない(もしかするとその時代は来ない)ので。

 

10万人くらいって、ちょうどギリギリ顔が見える規模なんですよ。

 

仕事で名刺交換した相手がよくよく話してみると後輩の親戚で、くらいがままあるレベル。

 

まもなく開局する放送局のキャラクターは、顔を描いてみました。

信頼しているデザイナーさんと、ケンケンガクガクやりとりして作ってもらったものです。

 

「ラジオだけど、顔が見える」がコンセプト。古いメディアだけれど、やってることは新しい。そういう放送局を目指しています。

 

最近よく、「夢がかなってよかったですね」的なことを言われます。

 

ラジオが好きで(というか音響機材が好きで)、メディアの仕事が好きで、という理由も、もちろん無くはないです。ラジオ少年だった過去も無いこともないです。

 

ただ、僕は自分一人の思いでコミュニティメディアを引っ張っていけるほど強くはないです。

 

メディアそのものも、再帰性をもって伝える側と受け取る側が相互作用で輪郭を形成してゆく時代です。

 

「そういう場をデザインすること」をやりたかった、というのが、けっこう本音に近いところです。なので、このメディアが、もしくはこのメディアを通じて起こるまちの変化が、どんな方向に向かってゆくのか、僕はよくわかりません。ただ、アクセルとブレーキには足をかけておいて、ハンドルは関わってくれるいろんな方が握ってくれればいいなと、そういうイメージでいます。

 

開局に向けて山盛りやることあるんですけど、これから加速度的にやることまだまだ増えそうなので、じゃあつまり今後の中で今日が一番暇ってことじゃん。と思ったので長文書いてみました。

 

たぶんこの忙しさの中で、コミュニティ放送局が新しく出来ました、みたいに取材とかされちゃって、なんとなくここまで頑張ってきてやっと開局しましたどーんみたいな見え方になりそうで、それはやだなーと思ったので原点を整理する意味も込めて。

 

明日以降は、書くかどうかわかりません。

書くとしたら、もうちょっと具体的な仕事のログにしたいと思います。

 

ドーン (講談社文庫)

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私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

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ソーシャル・キャピタル―現代経済社会のガバナンスの基礎

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