やっと開花宣言。古墳の桜は・・・
見た感じあちこち2~3分咲きといったところですかね。
あまり花とか植物に造詣が深い方ではないので桜情報みたいな記事は柄でもないのですが近場で気になっているところがありまして・・・
天辰寺前古墳公園。
なんでも、平成20年にこのあたりの区画整理をしてたら、重機がなにかに当たったらしいんですよ。
なんかあるぞってことで退かしてみたら、下から1500年前の古墳の石室が出てきてびっくりぽんっていうお話。びっくりぽんとか流行ってる?まだ流行ってる?
このあたりを治めていたと思われる、身分の高い方のお墓だそうです。
中から女性の人骨が一体、腕からは貝の腕輪、銅鏡や刀子などの副葬品が見つかったとか。1500年前から女性は強かったのですねえ。
発掘調査が終わって、公園として整備されて一般の人も古墳の中を見せてもらえるってことで行ってきたのが先日3月19日のこと。
こんな小高い丘のてっぺんに蓋がかぶってまして、蓋の中をのぞくと・・・
こんな穴の中に・・・
こんな石室が。
ここで1500年も眠ってたのねえ。
ふだんは石室保護のため中を見ることは出来ませんが、近くに模型も設置されていて石室内部の様子を知ることが出来ます。
工事中の車両が発見したっていう「石室のふた」がこれ。
で、公園として整備されたここの周囲に、桜の木が植えてあったよなあと思って見に行ってきたのでした。植樹されていたのはソメイヨシノではなくオオシマザクラ。
種類が違うからか、まだ全然咲いてないなーと思ってたら・・・
一輪だけ咲いてるのを発見!頑張れ!
次回、石室の中が見られる一般公開は5月21日の予定だそうですよ。
川内駅から車で5分程度の場所です。
またブログを書くことになりました。
MBCラジオでRadio Burnという番組をもう200回以上やらせて頂いておりますが、先日kagoshimaniaxの中の人と「ブログの話」をした際に、「youブログやっちゃいなよ」的ななんかそういうノリになりまして。
詳細な経緯はこの辺で。
。
自分より若い人にノリで勧められたことはとりあえずどうなるかわかんないけど乗っかってみる。そういうのが最近足りてないかもと思ったのでやりまーすって言いました。
新しく作ろうかなと思ったけどこのブログは数記事だけ書いて眠らせてたので、こいつで復活させてみることにします。3年も寝てたのかこれ。
さて、なにしようかなー。
古くて新しいメディア
開局まで1週間を切って、どこからどこまでが1日なのかわからない生活になっております。いまこれを書いてる24日夜時点で開局まであと133時間ほど。
これまでのことをふりかえってるような余裕は正直ないんですけど、「ラジオは古いメディア」という声をちらほら聞いた気がするので、そのへんのことをちょっと書いとこうと思いました。
コミュニティ放送をやろうということになって、いよいよ放送免許申請というタイミングで、東京に行く仕事があったのでついでに愛宕山にあるNHK放送博物館に行ったんですね。
ここは前々から一度行かねば、と思っていたところです。放送に関わる人はもちろん、メディア論とかメディア史とかに興味ある人は行っといたほうがいいですよマジで。
日本でラジオ放送が始まったのは大正14年、テレビは昭和28年です。数字がちょうど倍なので覚えやすいですね。はいここテスト出るよー。
大正14年当時に使われていたマイクとか展示してあります。リアリティがヤバイです。
あと驚いたのは当初ラジオは受信したい人が申し込んで有料で聞くものだった歴史とか。いま動画コンテンツを中心にオンデマンド放送が新しいサービスかのように出てきてますけど、大正時代の歴史の始まりにはオンデマンドがあったんですわ。
さらに、大正14年から始まったラジオ放送ですが、15年だか16年だかには音効装置とか作っちゃってラジオドラマをやってるんです。
なにが言いたいかと言うと、88年もの歴史を持つラジオではラジオドラマしかりオンデマンドしかり、メディアとしての実験はやり尽くされてるんですよね。その間に玉音放送もあったし、大震災もありました。
ラジオというメディアの強さは、ひとつにはこの歴史の長さにあると思います。
あるメディアはそれ単体で存在しているわけではなく、人々の生活の中に他のメディアと共存する形でメディア環境を形成しています。
メディア環境を構成する他のメディアの状況が変わると、メディアは役割も価値もかわってゆく。互いに他を構成しあっている関係(=再帰性、これ便利な言葉ですねテスト出るよー)にあるといえます。
広告費ベースでインターネットに抜かれたのが2004年ぐらいで、マス4媒体の中では最もヤバイなんて言われてたこともありました。
特にネットの世界の変化が目覚しいし、それに呼応するようにテレビや紙媒体も次々新しい試みを行うので、メディア環境は刻々と変化する時代になりました。
個々のメディアのありかたも、メディア環境の変化にあわせてゆく必要がある、というのはひとつの真実であると思います。
同時に、88年もの間「音声のみメディア」であったのは、唯一ラジオだけです。耳から触れるメディアということは、併用できるという観点からは他のメディア環境にスムーズに馴染むんですね。それがカーステレオから聞こえてくるか、PCやスマホから聞こえてくるかの違いはあれど。
コミュニティ放送が制度化されたのは1992年ですが、メディアのサイズが変わったということはメディア環境が変わったということでもあります。
コミュニティそれ自体のあり方の変化も、メディア環境の変化と呼応する要素です。
確かにラジオは古いメディアで、それゆえに様々な実験はやり尽くされていて、環境の変化は目覚しく、それゆえにメディア環境に合わせた新しい組み合わせがたくさん出来るようになった。
コミュニティ放送というのは、こういう「古くて新しいメディア」なんだと思っています。
これを書いてるうちにあと132時間ほどになりました。
薩摩川内市のみなさん、もしかすると我々は、みなさんの知っている「ラジオ」とは違うものをやろうとしているのかもしれません。それゆえのご批判も頂くかもしれません。ですが、いまの時代の、このエリアのメディア環境だったらこういうことのはず、という確信を持って私たちは新しい放送局を作っています。
開局日の3月2日まであとほんの少し。これからどうぞよろしくお願いします。
人間万事塞翁が馬。
開局まであと28日。
28日か・・・素因数分解すると2・2・7。近いな。やっぱ近いな。
研修2日目でした。
実質、19日間しか研修期間がないので、残り17日。
放送法、電波法、薬事法、健康増進法、景品表示法、出資法、利息制限法、著作権法、公職選挙法。小さくても放送局をやるとなると、少なくもこういう法律が関わってくるので最低限の知識が必要です。もっと他にもありますけども。
僕はいちおう法学部に行ったので、条文とか契約書とか読むのもさほど抵抗ないんですが、法学部を選んだ理由は特に無くて、一番合格可能性が高い試験科目構成と配点のとこを選んだらそうなったとか、そういう理由です。
薬事法とか景表法の類は、新卒で広告会社に入って、担当させてもらった仕事でたまたまそのへんをガッツリ扱ったことが経験値になりました。
一昨日の記事にも書いたとおり、音響機材とかの原点は高校時代の部活とかバンド経験から。
営業とか企画は前職、マネジメントに関するところは大学時代かもなあと今となっては思います。
何がどう組み合わさって、何につながるかわかんないものだし、無駄なこととか実はなにもないんじゃないかなと思うところです。
それときょうはもうひとつ。
サンタクロースは居ます。
「見られる」ということ、「見られない」ということ
開局まであと29日。
きょうはスタッフ研修の初日。なんというか、すごく不安なのもわかるしビビってる感じも伝わってきつつ、でも前のめりな部分もちょいちょい見えるのが、よくわかんないけどいいなーと思いました。いや、一番ビビってるのは自分かもしれないんだけど。ビビってる感じを出さないのが役割なのでとにかくイケイケで行くしかないですねここからは。
僕らの仕事場になるスタジオは、駅の建物内にあるので外から見えるようにしてあります。スタジオで喋ってる様子は基本丸見え。
音声だけのメディアではあるけど、コミュニティなんでとてもリスナーさんとの距離は近いです。間近で見られることも、きっと多いんだろうなーと。
この距離の近さが、コミュニティ放送の特徴でもあります。
何しろ、放送してる側も基本みんな地元なので、学校がいっしょだとか住んでるところが近いとか、かつて一緒に仕事してた誰々がうんぬんみたいな話は、送り手と受け手の間にたくさん起こります。
リアルな意味でも、関係的な意味でも「顔が見える」。
そのことによって、ある程度スタッフについては振る舞いを制限してしまう部分があるんですよね。とても狭いエリアなんだけど、そのエリアではとてもよく「見られている」ということになります。見られてもいない、としたらそもそもメディアとして機能してないってことですからね。
きょうの研修初日を見ていて、「自分を見る」っていう作業を怠ると、なかなかこの「見られている」状態に慣れないんじゃないかな、と思いました。
たまたまですけど、去年からマラソンやりはじめたんですよ。
散々言ってますけど、僕は全然運動なんかダメな方で。体育祭とかまともに出たくないから吹奏楽やってたくらいで。基本インドアだし身体も強くない方です。
でも、ちょっと思うところあって30過ぎてから走りはじめたわけですよ。
結果的に、なんとかフルマラソンまで走りました。
で、マラソンっていうのが自分に向いてるなーと思ったのは、「自分を見る」作業がキモだっていうこと。
基本的にもともと身体が出来てないので、かなり計画的にトレーニングしないと3ヶ月かそこらでフルマラソンは絶対ムリだと思ったし、食事とかストレッチ法とか、そういう情報はネットで入手するんですけどその情報を自分の身体に当てはめるためには「自分を見る」をやんなきゃいけない。
基本、僕は自分好きなんで「自分を見る」は得意なんですよ。
マラソンでも本番になると周りのペースとかフォームとか見ますけど、そこまでにはそれなりのトレーニング積んでくるわけで、この間はずっと一人ですからね。こういう作業が好きなんだろうなあと思います。
何人かの方から、一緒に練習しましょうよ、って言われましたけど、一人で自分を見るプロセスが必要なんでお断りしました。せっかくお誘いいただいたのは嬉しいんですけどね。
そのプロセスをガッチリやってると、「見られてる」ときに「周りを見る」ことができるようになるんじゃないかなあと。
詳しくは長くなりそうなんでやめときますけど、マラソンやりはじめてあきらかに仕事のやり方変わりましたからね、自分の場合。
なんか行き詰まってる人、とりあえず走ってみるといいですよマジで。そういう話じゃないけど。
「見られてない」ところでは、「自分を見る」。「見られてる」ところでは、「周りを見る」。求めるスタッフ像みたいなものをイメージしながらきょうの研修見てましたけど、そういうことかなーと思ったという話でした。
放送機材の話。
開局まであと30日。
1月が終わっちゃいます。3月2日が開局日。1月って言ってるうちは間に2月さんが居る感じがするので、「もうちょっと」ってイメージだったんですが2月になるとヤバイ。もうすぐそこに居るよ開局日。3月がすげえ存在感。近すぎて震える。
そんなこんなで開局作業は毎日膨大な雑務とともに進んでいます。
たとえばきょうは、スタジオの機材関係の搬入設置、設定なんかを業者さんにやってもらってるのと並行して、伝送装置(音声を送信所まで持ってくやつ)の工事とか、開局記念イベントの打ち合わせとか、販促ツール的なもののデザイン発注とか、事務的な手続き書類とか、スタッフ研修の資料準備とか、そういうことをしてました。
まーでも、スタジオに機材が入ると、放送局っていう感じがします。
もともと僕は昔バンドやってて音響機材扱ってたりとか、ちょっとしたイベントの音響やったりとか、あとインターネットラジオの活動なんかをしてるので、たぶん世間の平均的なとこよりは機材に詳しい方になると思います。
マニアというよりは機材フェチっていったほうがいい気がするんですけど。
○うんど○うすのカタログとか見ながらご飯食べられるレベル。
それはさておき、放送局用の機材と、バンドとかインターネットラジオ用の機材は何が違うか。たとえば、インターネットラジオ用にしては僕はそこそこ個人所有の機材持ってる方ですけど、せいぜいもろもろで十数万円くらいのものです。 いや二十万くらいはするかな。ほんとはもうちょっとするんですけど。何のエクスキューズだコレは。
別に音響機材とかなくても、いまPCにカメラとかマイクは内蔵されてるものが多いので、たとえばMacBookの内蔵マイクとカメラでUstream配信、っていうのでも成立はします。
ですが人数が複数いるときに、それぞれの声を個別に拾ってバランスとりたいとか、音楽重ねてどうこう、となってくるとマイクとかミキサーとか、そういうことになってくるわけです。
じゃあそういうUstreamとかやるような機材で、放送局やっちゃダメかっていうと、別にそんなこと無いんですよ。出来るか出来ないかで言えば、まあ出来ます。
機材ってお金かければほんと際限なくかけられるので、どのレベルのものをどれだけ揃えるか、っていうのは、お金のないコミュニティ局にとっては難しい問題です。
全部プロ仕様のいい機材を入れられるなら入れたい。そうするととんでもなくお金がかかるので、どこにこだわってどこを妥協するか、そういう判断をしないといけないです。
具体的な個別の機材の話を書いてると、この記事が終わりそうな気がしないですな。
まず感じるのが、プロ仕様じゃなきゃいけない部分と、そうでなくてもOKな部分の境目が、だいぶ後者に寄ってきてるっていうところ。
編集ソフトとか、ハードもそうですけど、安くなったなあと思います。フリーウェアでもここまでできちゃうの、みたいな。価格が単純にクオリティと比例しない。購入側からしたら 見極める目が試されるところです。安いもので充分なところは、躊躇なく安いものを入れる。
いっぽうで、プロ仕様の機材が高価なのは、それなりに理由があったりもします。
理由はそれぞれですけど、たとえば「壊れない」とか。壊れても部品交換で永久保証してくれるとか。特に田舎の放送局ですから、たとえばメインのコンソールがぶっ壊れて「ちょっとそこのお店で買ってきて」なんていうわけにいかない。その間放送を止められないですからね。
あと、意外とコミュニティの場合大事だと思ってるんですけど、「低機能にまとめる」なんていうのもポイント。
高機能で高い、っていうのは、よくあるじゃないですか。でも、少人数でやるんだったら最低限の機能で、とにかくこうやったら音が出ます!みたいなのがいい。そのほうがあちこち触っちゃってトラブルになるのを回避出来ます。低機能で高品質、っていう機材は、なかなか見つけるの難しいんです。
なので今回入れた機材は、個人の趣味で買うんだったら、同じ値段ならもっと違うの買うな-って思ってますけど。
基本的な目線は、「トラブル回避」です。最小限のスタッフと機材で、最大限のメディアを作るための。
なんでもそうですが、常に80点以上のクオリティを保つ、っていうのはなかなか難しい。マラソンでも、大会当日に合わせてトレーニングするからなんとか42km走れますけど、毎日30km走れって言われても無理。いや出来る人もいるんでしょうけど。
コスト(お金だけではなく)の面から言うと、平均80点のクオリティを作るためにかかるコストと、80点を95点にあげるために必要なコストと、95点を100点に持ってくためのコストが、同じくらいじゃないですかね。
放送事故とかトラブルが有ると0点(免許事業としてはマイナス点かも)の可能性があるので、トラブル回避が平均80点キープに非常に重要なポイントだと思っています。
あ、もちろん80点でいいや、と思ってるわけではないですよ。日々の放送は100点以上を目指してやりますが、放送局っていうビジネスは平均点大事だな-と思ってるっていう話です。
きょうはこのへんで。
いま別ウィンドウで開いてるデータ入稿したら、帰って一杯だけ飲んでもいいよね。
ホントは機材ラック眺めながらでも飲める気がします。機材フェチですから。
コミュニティ放送局を作るということ。
別にブログを書いてたりもしたんですが、Facebookとか使うようになってあんま書いてなかったのと、いまやってる仕事のログはどこか別のところにまとめときたいなーと思っていたのでここを使うことにしました。
いま、コミュニティ放送局の開局事業を進めてるところで、開局予定日まで今日時点であと31日。予定日って書いてますけど既にそこに合わせてもろもろ発注してるので、多少なにかあっても土下座する用意はできてますが開局日がズレると土下座しまくって額が擦り切れて後頭部だけになっても済まなそうな気がするんで開局します。するんです。頑張れ俺。
で、このブログですが、コミュニティ放送局の代表としてのオフィシャルなものではないと前もって書いときます。そうはいっても一定の責任はついてまわるわけですが、個人としての目線で、自分の地元の片田舎に放送局を作る過程っていうのを記録しておくことはなんか意味あるんじゃないかなーと思ってます。誰かの役に立つとかそういうのはわかんないですけど、少なくとも自分の記録としては残しときたいぐらいのプライベートなものです。
突然ですけど、多くの(県庁所在地でない)地方都市は「メディア過疎地」なんじゃないかと思うわけです。少なくとも僕の地元はそうで、東京の情報は入ってきます。県庁所在地の情報も。じゃあ県内2番めだか3番めだかの規模のまちで地元情報となるとどうか、っていうと、あるようでないんですよ。もちろん地元テレビ・ラジオとか新聞とかにはある程度出ます。けどやっぱ割合的に少ない。これは構造的にしょうがないんです。それより小さいメディアっていうと、こんどは回覧板とかになる。
インターネットはどうかっていうと、まず鹿児島県は普及率が下から数えたほうが早い。「ネットにある地元の情報」ってのは、(言い方として好きではないですけど)情報に強い人達が発信したものが多いです。
埋もれている情報っていうのはどんな規模のコミュニティでもあると思いますが、きめ細かさが違うんです。ほんとは素晴らしく多様性を持っているのに、それを可視化できる環境がない。そういう意味で、「不足しているサイズのメディア」があるんです。
いまやろうとしてるコミュニティ放送局の運営母体は、3セクまちづくり会社なんですが「まちづくり」っていう言葉の定義は非常に難しいですね。
何年か関わってみて感じたのは、やっぱ「まち」も生き物だなーっていうこと。
生きてる以上、これで完成、とかがない。
僕はよくいろんなところで、「分人」っていう話を引用します。
平野啓一郎氏の小説「ドーン」とか新書「私とは何か」に登場する考え方です。
詳細は本を読んで欲しいんですが、一人の「個人」であっても父親として、経営者として、旅人として、iPhoneユーザーとして、などなどそれぞれの場面や気分で異なる顔を使い分けているはずで、それらは個人よりももっと細かく分割されて独立した存在としての「分人」と捉えたらどうか、というもの。
分人は他の分人との相互作用で生まれたり消えたりします。
生まれたり消えたりすると、自分の中の分人の構成が変わります。
まちの構造も、これに似てるような気がするんですね。
まちという生き物を構成する個人、企業、コミュニティ。それらの中にもまた「分人」が居て、というようなフラクタル。
まちという主体は、構成員の組み合わせによって変化するし、まちが変化することで構成員も変化する。互いに他を構成しあっているような関係(=再帰性)がある存在だと思います。
まちづくり、というとき、それは自分自身を、あるいはそのなかの分人を定義する行為でもある、といってもいいかもしれません。
そういう「まち」をとらえてまちづくり、というとき、ひとつの方向性を示してそこに収斂させてゆく、という方法論では無いアプローチがよいのではないか、と思ったというのが、コミュニティ放送局の話につながります。
まちも、コミュニティも、(あるいは、個人も)生き物である以上、成長もすれば退化もし、寿命を迎えるときも来ます。
細胞が盛んに新陳代謝を起こして入れ替わってゆくように、まちが生きている状態を保つためには、相互作用が健全でなければならないのではないか。
こっちですよ、と引っ張ってゆくアプローチではなく、「まちのなかの相互作用」を可視化してゆくことで、健全な新陳代謝ができるようになるのではないか。
コミュニティ放送というメディアを通じて実現したいことは、そういうまちづくりです。県域メディアや全国メディアでは大き過ぎる、インターネットは部分的で早すぎる。そこで機能できるのがコミュニティ放送だと思っています。
ラジオ、といってしまえば大正時代からあるとても古いメディアですが、手法としては極めてFacebook的な、ソーシャル・キャピタルに基づくコミュニケーションを志向しています。
正直、Facebook普及率がこのまちで50%を超えたら、コミュニティ放送はもう必要ないのかもしれません。ですが、そこまで待てない(もしかするとその時代は来ない)ので。
10万人くらいって、ちょうどギリギリ顔が見える規模なんですよ。
仕事で名刺交換した相手がよくよく話してみると後輩の親戚で、くらいがままあるレベル。
まもなく開局する放送局のキャラクターは、顔を描いてみました。
信頼しているデザイナーさんと、ケンケンガクガクやりとりして作ってもらったものです。
「ラジオだけど、顔が見える」がコンセプト。古いメディアだけれど、やってることは新しい。そういう放送局を目指しています。
最近よく、「夢がかなってよかったですね」的なことを言われます。
ラジオが好きで(というか音響機材が好きで)、メディアの仕事が好きで、という理由も、もちろん無くはないです。ラジオ少年だった過去も無いこともないです。
ただ、僕は自分一人の思いでコミュニティメディアを引っ張っていけるほど強くはないです。
メディアそのものも、再帰性をもって伝える側と受け取る側が相互作用で輪郭を形成してゆく時代です。
「そういう場をデザインすること」をやりたかった、というのが、けっこう本音に近いところです。なので、このメディアが、もしくはこのメディアを通じて起こるまちの変化が、どんな方向に向かってゆくのか、僕はよくわかりません。ただ、アクセルとブレーキには足をかけておいて、ハンドルは関わってくれるいろんな方が握ってくれればいいなと、そういうイメージでいます。
開局に向けて山盛りやることあるんですけど、これから加速度的にやることまだまだ増えそうなので、じゃあつまり今後の中で今日が一番暇ってことじゃん。と思ったので長文書いてみました。
たぶんこの忙しさの中で、コミュニティ放送局が新しく出来ました、みたいに取材とかされちゃって、なんとなくここまで頑張ってきてやっと開局しましたどーんみたいな見え方になりそうで、それはやだなーと思ったので原点を整理する意味も込めて。
明日以降は、書くかどうかわかりません。
書くとしたら、もうちょっと具体的な仕事のログにしたいと思います。
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